■麗江 瀘沽湖 昆明 (2回目)
その二
4日目 瀘沽湖へ
道路工事は取りあえず道路の両端にコンクリートで防護帯のようなものを作り、その後 舗装にするようです。寧ランから瀘沽湖までは80kmほどありますが道路工事はそのほとんどで行われていて 道路の両側には工事用の砂利が必ず置かれています。
後で聞いたのですが工事は5月1日の花博開始までにという条件がついているらしく、それで中国にしてはかなりのピッチで行われています。でも 間違いなく5月1日には終わらないと思います。
それでも大きな山を3つ越え、2時間半程で瀘沽湖手前の峠に到着し、瀘沽湖の展望台へ。峠の手前の一番道路の悪い部分も半年前に較べ全く問題がありません。展望台からは霧?が多く瀘沽湖の対岸が良く見えませんでした。残念
瀘沽湖 展望台より
更に峠から道路は下ると観光客向けのゲートがあるのですが、時間が早いせいかパス。落水の部落へ、ここで宿となる前回と同じ民族園へ、前回は瀘沽湖の増水で瀘沽湖湖畔の道路がほとんど冠水していて使えなかったのですが今回は湖畔の道路は水も退いて使えました。この後、この湖畔の道路は何度も何度も通りました。
民族園
まだ時間も早いので船着き場まで往復。昼食は民族園。
瀘沽湖湖畔
午後からは昼寝をしたり、湖畔を散策。民族園と湖畔の水際まではその道路の巾の10メートルほどで、その道は摩梭人の曳く馬に観光客が乗って行き来しています。
獅子山と乗馬
船着き場より北側
同
曹さんと楊さん
(曹さんは去年一緒に蛇島に同行してもらいました)
民族園2階より蛇島、獅子山
同 瀘沽湖湖岸
民族園のお客さんの泊まる大きな木造の建物の裏に摩梭人の経営者の古い木造の建物があり、前回もそこでお茶をいただいたのですが今回も夕方 寒くなるとそこへ私たちは集まって、楊さんにいろいろと摩梭人の生活を1時間ほど聞いていました。
◎Q 何故 摩梭人だけ犬を食べないのか
A 言い伝えによって犬は大事にしている。犬と猫は生まれた時から大事に育てているので仲が良い。
以下はその言い伝え
昔 神様が生き物の寿命を決める事になりました。「千才から逆順に数字を言うので希望の寿命になったら答えなさい」という事で千の数の時に鶴が返事しました。いろいろな動物が希望の寿命で返事をしました。犬は65の時に返事をしました。しかし人間はまだ起きたばかりで頭がボーッとしていて返事が出来ません。やっと13の時に返事をしました。しかし人間が13才の寿命では短か過ぎるので神様と話をして「では他の動物と寿命を交換してもらえるなら許そう」という事になり、人間は犬と寿命を交換してもらいました。それから摩梭人は犬を尊敬し大事にするようになりました。
民族園客室 すきまあり
夕食は湖畔の食堂にて。食後はいつものように摩梭人の踊りがありますが 今日は、村長の摩梭風情園です。この民宿は庭はあまり広くありませんが、庭の真ん中に木が一本あり、それが丁度満開でした。その木の周りを摩梭人と観光客が踊り、廻ります。私はその木の隣にビデオカメラとMDのレコーダーを置いて録画・録音しました。
摩梭風情園にて
摩梭風情園にて
この摩梭人の踊りに参加しようと9月に来た時のビデオープでステップを練習をしようとしたのですが練習をしてくるのを忘れてしまいましたが、それでも一家で踊りの輪に飛び込んで一緒に踊っていました。
踊りが1時間、その後歌が30分ぐらいで10時過ぎに民族園に戻りました。
摩梭風情園にて 木の回りで
摩梭風情園にて 民歌(曹さん)
5日目 摩梭人 民居訪問
民族園内庭
同 内庭
奥 彫刻師、手前 楊さん
泊まっている民族園は落水という部落ですが この落水は大落水と小落水があり更に大落水は上落水と下落水があります。寧ランから永寧までの道路の山側の部落が上落水で、道路より瀘沽湖側が下落水です。従って民族園は下落水にあります。大落水全体では72軒の家があるそうです。
そして上落水はほとんどが普米族、下落水は摩梭人の家だそうです。
今日は上落水にある摩梭人の家と普米族の家の訪問です。車を落水で一番大きな建物の寧ランの招待所の庭に止め、まず自動車道路からちょっと入った普米族の家、曹珍さんの家を訪問しました。家で応対していただいたのが曹珍さんで、彼女は普段は麗江の黒白水大酒店のレストランで働いており、今は生家に帰っているそうです。彼女の顔立ちはキリリとして背も高く これぞ摩梭人というイメージを抱かせます。そこで摩梭人のガイドさんの楊さんと彼女の会話を日本語ガイドのTさんが要約してくれます。
◎Q 摩梭人と普米族の衣装が似ているが
A 普米族が摩梭人の影響を受けたようだ。
◎摩梭人は本当は「ナズ」人と自称している。依然 漢族の学者か来てそのナズという言葉を納西族と似ているからという理由で 納西族の支族としてしまった。
◎Q 摩梭人の名前は「楊」「曹」しかないのか その由来は
A 本当は摩梭人の本来の名字が別にある。楊は 摩梭人の好きな山菜の名前の音であり、曹は瀘沽湖の小舟の名前の音からきたものである。どちらも漢族用の名前
曹家訪問
1時間半ほど摩梭人のお話を聞きながら 初めてバター茶をいただきました。塩味のクッキーの味でした。あまり日本人には向かないと思います。
同 バター茶
同 ツァンパの食べ方
この時の曹珍さんは毎晩の摩梭人の踊りに毎回参加されており、いつもお会いする事が出来ました。参加される摩梭人の中では一番背が高く、緑色の民族衣装と共に目立っていました。
◎普米族は基本的に走婚はしないが 摩梭人の影響で若い人の一部で走婚をしている人がいる。
◎普米族の好きな色は緑、摩梭人は白−−− 毎晩の踊りに参加している緑色の服装の女性は普米族の可能性大。
◎普米族の家は摩梭人とほとんど同じですが 摩梭人の家長(ズドタブ)が寝る位置のベッドは物置になっている。
◎普米族、摩梭人共、家の中の2本の太い柱は同じように 男の柱、女の柱である。左が女性、右が男性
◎普米族のお正月は 旧暦の12月1日、摩梭人は漢族と同じ旧暦の1月1日。
◎落水の普米族は摩梭人の生活の影響をかなり受けている。
◎お茶はダン茶から作るバター茶と普通のお茶を飲む、バター茶に使うバターは購入している。
◎生計は農業が主だったが 曹珍さん宅は観光業もしていて今は観光業の所得の方が倍ぐらいあります。
◎電気が入ったのが1996年、開放地域になったのが1992年頃
観光が始まった頃は中国人がやってきて、上落水の方が流行って、この家の曹珍さんのお兄さんが初めて旅館とレストランを始めた。しかし今は、湖畔の下落水の方が流行っている。
この会話の中で摩梭人のガイドの楊さんから日本には少数民族がいるのかという質問があって、「小数のアイヌ民族と少数民族ではないが沖縄の人は日本人と大きく異なる民族である」と答えておきましたが、楊さんは「日本には漢民族とその他の少数民族がいる」と思っていたようです。
この家もそうですが摩梭人、普米族の囲炉裏の五徳は巨大でこんな大きなものはどこにもありません。作っているのが永寧という事で永寧を訪れる時に探してもらう事にしました。
巨大五徳のある囲炉裏の火に当たりながらツァンパとバター茶をいただいて1時間半ほどお宅訪問をしてしまいました。
その後、曹珍さんの家から更に上の山側に上がり、少し高い位置から瀘沽湖を眺めました。天気も良く全員で30分ほど畑の中をうろうろしていました。
上落水より瀘沽湖
昼食は招待所から2軒隣の四川料理のお店です。ここは店構えに較べて味が良く、以後何度も昼食をとりました。この店の道路の反対側の雑貨店にビールそっくりの飲み物があって間違って買ってきてしまいました。甘い飲み物でビンはビールの瓶で結局、子供が喜んで飲んでいました。(6人で70元ぐらいでした)
落水メインストリート
左側の梯子のある所で昼食
午後からは摩梭人の家を訪問。残念ながらお名前を聞くのを忘れてしまいました。この家は大家族で現在、十数人で暮らしているが外で暮らしている人を合わせると二十数人という事で落水では最大の家族だそうです。
摩梭人宅訪問
全員が集まるのはお正月ぐらいとの事です。この家では男性がいなくなってしまったので、外から足入れ婚で男性が来ている。それもその男性にはつき合っている女性が更に複数いるとかでテッセッセの逆もあるという珍しい事例のようです。(この家は上海の電視台で放送されたのだそうです)
この家の内部だけを見ると、家長のズドダブの寝る位置に布団があるだけが 午前中の普米族の家の内部と異なります。
残念ながらこの家の方は私たちが囲炉裏でお茶をいただいている時におつき合いしていただけなかったので1時間ほど 訪れた6人で以下の会話がありました。
Q ズドダブになるかなれないかはどういった基準なのか?
A まずテッセッセをしている女性はなれない、又それなりの年齢でなければならない。人柄も影響してくるようです。
Q 産児制限は?
A 女性一人に子供3人までだそうです。
会話も途切れ、この家の2階にある琵琶豚を見に行く事になりました。子供は初めて見るブチャの元の乾燥ブタを見たようです。今回、民族園で食べたブチャは前回と異なり、塩辛いだけでなくまあまあの味でした。
琵琶豚
この乾燥豚−琵琶ブタの作られた理由も聞きましたが、ここには昔、チベット族の侵略があり、財産を持っていかれてしまうので 乾燥豚を持って逃げるという知恵から生まれたという事でした。
又 この家にあるラマ教の経堂も拝見しましたが 綺麗に掃除され、生き仏の写真が置いてあり、聖水が多数 小さなお皿に乗せてあり、も日に何度も取り替えるのだそうです。生き仏は瀘沽湖の蛇島に住んでいた元地主の奥さんの子供が生き仏になったのだそうです。その奥さんである母親は文化大革命の迫害で瀘沽湖に身を投げて亡くなられてしまったそうです。
文化大革命でこの辺りにやってきたのは誰かを訪ねましたらやはり漢族の紅衛兵でトラックに乗ってやってきたとの事、この辺境の瀘沽湖まで文化大革命がやってきていたのはいたたまれません。
仏間
そんな話を伺いながら女性ばかり居る家の庭で子供がチェキを撮っていました。やはりなかなかの好評で、母親+幼児で撮る事が一番多いようです。ただ幼児の母親も父親も誰がだれだか 漢族のTさんも全く判らないようで、聞いてみたいとも思うのですが 聞いても仕方がなかったりしますので、諦めていました。
馬で船着き場へ
早めの午後3時頃には この日は終わりで私の家族と楊さんの4人で瀘沽湖の船着き場へ行き小船で民族園まで戻る事にしました。しかし瀘沽湖は午後から風が強くなり 私たちの向かう逆方向(北風)に吹きます。それでも何とか小船のオバサンを説得して小船を出してもらいました。風の強いなかなんとか小船は進むのでが、民族園に近づくと更に風は強くなり、とうとう風の方が櫂の力より強くなり瀘沽湖の湖上で小船はグルグル回りだしました。風が少し弱くなるタイミングを見計らって、一番岸に近い所へ無理矢理上陸して、無事戻りました。30元也
強風の中、民族園へ
民族園にやっとの事で戻ると中庭で馬を曳いている観光業の摩梭人のおばさん達が集まっていて、何人かは そのコンクリートの中庭で横になって寝ていました。風の強い午後は観光客もまばらで暇潰しなのでしょう。そこで又 チェキを取り出して撮影大会になってしまいました。馬は風の強い湖畔につながれたまま。
民族園内庭 昼寝
民族園内庭
夕方から停電です。どうも私が来ると停電のようです
夕食は再度、瀘沽湖の下落水にあるただ1軒の食堂にて。今日からは私たち家族3人と中方の3人は別のテーブルで食べる事になりました。やはり日本人と中国人では食べ方も異なりますし、食べる嗜好も異なりますので、その方が安心して食べられます。特に子供には辛いものは厳禁なので最初からそうすべきでした。ただテーブルが2つですと、料理の数も全体では増えますのでその分の出費は仕方がありません。
この食堂には中国将棋が置いて有り 料理が出てくるまでの時間、子供がそれを覚えてTさん、楊さん、張さんとも対戦していました。この後、麗江で3つも中国将棋のセットを購入して帰国しました。
夕食後は摩梭人の踊りです。今夜は民族園から数軒隣の摩梭園で行われました。ここは庭があまり広くないのですが、お客さんも道路工事の為か、麗江からのお客さんがあまり見えず四川省からのお客さんが目に付きます。この夜は午前中にお邪魔した普米族の曹珍さん、そして去年 瀘沽湖の舟に一緒に乗ってくれた曹さん(まだ18才だった)の姿もありました。
1時間半ほどで踊りと歌も終わりましたが途中で何台かの車がお客さんを乗せて帰りの途についていました。道路工事の為に深夜の帰路となるようです。
摩梭園
摩梭園
緑色の服が昼間お邪魔した宗さん
右端がいつもの宗さん
瀘沽湖周辺だけではありませんが 風の強い日が多く、ビデオカメラの内部にも埃、塵等が侵入してきて、ただでさえ記録密度の高いビデオテープの記録を妨げます。以前使っていた8ミリビデオは記録密度が今のデジタルビデオよりも低いので埃、塵等の影響もそれほどでは無かったのです。折角のビデオテープですから毎日、毎日、ホテルに置いて有るシャワーキャップに2ケ所の穴を開けてビデオカメラに取り付けていました。風も強く日に何度も取り替えていました。それでもたまに影響を受けています。
停電の為 満月に近い月夜の中を民族園に戻り、ろうそくと懐中電灯をつけたまま就寝
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