■雲南 緑春と新平県戛洒鎮(6回目)
その二







5日目 戛洒2日目





いよいよ戛洒の日々が始まります。
T1さん、T2さんと共にT3さんが勤めている製紙工場の社宅にT3さんの新居を訪れる事になりました。
この製紙工場は以前1回ほど訪れましたが今回 社宅のアパートに行くのは初めてでした。外から見ると工場の建物と社宅の建物の面積が同じくらいあり、しかも工場はかなり老朽化しているようですが社宅の方はかなり綺麗でした。その社宅の1階に新居があり、既に大きな家財道具は入っていましたが台所が全くなく、T3さんの母親と新郎の家族が台所を作っていました。レンガを壁の所に積んで作る模様です。

T3さんと新郎、友人は結婚式の招待状に名前をセッセと書き込んでいますが参加者は100名を越えるらしくかなりの招待状の赤い紙が積んでありました。まあいくら多くても参加者がお祝いを持ってきますので経済的には困りません。私も8月に既に渡してありますので今回は手ぶらで参加予定です。

当初 戛洒には長期滞在するつもりは無かったのですが こちらが日程的に許される一番長い滞在可能日の最終日にT3さんの結婚式があり、それまで滞在するのは偶然とはいえつらいものがありました。

新居ではまだ準備が続いていましたが T1,T2さんと共に後にして南恩大酒店から戛洒汽車維修中心へ引っ越しをしました。そしてその建物の中の小飯店で昼飯です。35元なり。

まだ 公安への挨拶をしていませんので昼食後一人で行きました。残念ながら派出所には一人の警官しか残っていませんでした。彼は新平のXPTVを見ていました。新平に電視台があるというのは初めて知りましたが、新平のような小さな県にもテレビ局があるとは驚きです。どうやって新平県城から中継しているのかは不明です。まさか衛星中継ではないと思いますが。
派出所では滞在する場所、昆明に帰る日を告げて終わりです。本来なら住宿登記という事なのでしょうが、結局は外国人がどこにいるのかを確認出来ればOKのようです。


その後 T1さんのお父さんから結婚式があるから一緒にという事で誘われT2さんと共に行ってみました。場所はT1さんのお婆さんに当たる家の隣の家で花腰イ泰族同士の結婚のようです。近所の家も宴会の準備を手伝っているようで数軒ぐらいが大鍋で料理を作っていました。

私が戛洒でウロウロしているエリアというのは1KmX500mぐらいの範囲なのですが もう親戚、知人だらけという感じで知らない人に合わずに街を歩くのは不可能です。大概誰かに会います。ですからこの結婚式の準備にも顔見知りの人が沢山集まっていました。
まだ結婚式の時間には少しありましたのでT1さんのお婆さんの家で暇を潰していると花腰イ泰族おばさん達が 写真を撮って欲しいという事で機織り機に座ります。私がチェキで何枚も撮るわけです。
戛洒では各家に機織り機が1台ずつあって女性が腰帯びを織っています。糸はカラフルなものを購入してあってそれを機織り機用の木製のホルダーに巻き付けて使います。腰帯は巾5cmぐらいで長さ3メートルぐらい、民族衣装の腰の辺りに2,3本は巻き付けます。
今回T2さんの家の前の人民政府の建物の一部に戛洒の花腰タイ族のお土産を売っている小売店が出来、そこでも1本30元程度で売られています。また偽物の民族衣装も売られていますが みんなで「偽物」と言っておりました。観光客なんてほとんどいませんので商売になるのでしょうか?



戛洒の絵はがき



脱線しましたが 結婚式の準備ですが 直径1メートル以上の大鍋(中華鍋)を使って路地で宴会の料理を男性が作っています。女性はほとんど料理を作りません。花腰イ泰族の男性はマメです。大体数種類の料理がテーブルに並べられていきますが、牛、豚、山羊が使われ朝一番に処理されるようです。その後 解体され、量が多ければ新娘の家へ届けられます。(きちんと計量していました)−−− 新娘=お嫁さん
肉類もそのほとんどが使われ無駄になる部分がありません。骨だけが転がっていました。ここ戛洒では牛の臓物を使った「湯鍋」タンコウ という名物料理もあります。

この時に使われる各種の器、鍋、茶碗などは個人で所有しているものではなくて戛洒の街がいくつかのブロックに別れているようでその一つのブロックの所有物のようで 大きなペンキでそのブロックの名前がそれぞれに書かれていました。
人数も半端ではありませんで協力している家が数軒、宴会も新郎の家だけでは入り切れませんので、この時も斜め後ろの2階建ての家を全てを開放して宴会に当てていました。こちらだけでも100名ぐらい入っていたようです。多分 新郎の家と合わせて200名近くが参加したようです。

午後3時半になりますと新娘を迎えに行った車で新娘と嫁入り道具がやってきました。2トンぐらいのトラックに嫁入り道具が満載です。新娘と伴娘と呼ばれる新娘の友人が花腰イ泰の民族衣装を着て降りてきました。

新娘と伴娘が新郎の家へ向かいます。そしてその後を嫁入り道具を天秤棒に吊るした男性が続きます。新娘、伴娘の服装は未婚者の派手な民族衣装と同じで、頭に毛糸の四角な布状のものをかぶっていて 自分たちの部屋に入るまでは取らないので新娘の顔はなかなか見る事ができませんでした。

新娘は新郎の家に入る時には何か挨拶があるのかと思っていたのですが 新郎の親が井草のような草で作ったホウキでさっと新娘や伴娘の体をなでて貰ってからさっさと新郎の2階にある自分たちの部屋に入ってしまいました。荷物もそれに続きます。どうも花腰タイ族の結婚式は全く 挨拶が無いようで、3軒の結婚式に出ましたが 参加者に挨拶のようなものは全くありませんでした。
ですからこの結婚式=宴会に参加している人は新郎、新娘がやってきても、単に宴席が続くという事のようです。

嫁入り道具ですが見かけたものは、布団が何組、ベット、テレビ、化粧台が運ばれてきました。ですから 1部屋を新郎は用意しておかないといけません

到着した新郎と新娘は宴会のテーブルに着き、親しくしている同一の世代の友人と飲食を初めました。これで終わりなのかと思ったものですから、こちらも別の場所に移動し、1時間ほどしてその場所に戻るともう誰もいません。聞いてみますと 新郎と新娘は一端、新娘の家に行き(戻り)そこでも行われている宴会に出席するのだそうです。そしてその日の内に再度 新郎の家に戻ってくるのだそうで、新娘は3度も移動するのだそうです。

そういった新郎、新娘の移動とは別に宴会の方は続いておりました。この結婚式の家庭とT1さんの家とはそれほどの関係ではなかったようで 私の方はT1さんのお父さんと共に赤い祝儀袋を持って新郎の父親の所へ連れられて紹介を受け、ビデオの撮影が許されました。
この結婚式を写真を含めて撮影しようという人は全くいなかったようで ビデオCDの事になっても御両親は興味が無かったようですが新郎は随分と期待されていたようです。

新郎、新娘のいない結婚式でも 新郎の家、隣の家も 盛り上がっているのですが花腰イ泰族の民歌が出てきませんでした。やっと夜の9時頃になり隣の家の2階で歌っているのを聞きつけました。しかし周りが宴会の喧噪で何を言っているのかわかりません。年配の男性と民族衣装を着ている年配の女性との掛け合いです。1対1の歌垣のようなものです。この時は男性1人と周りにいる複数女性の掛け合いのようでした。内容が全くわかりませんでしたが、どうも恋の話題なのでしょう。たまにみんなで笑っていました。
こういった民歌は若い人は全く歌えませんので お世話になっているT1,T2さんには無理のようです。こういった民歌はもう歌われなくなる寸前のようです。
何回か戛洒を訪れて感じるのは 花腰イ泰族の家庭は男性と女性の地位と役割は ほぼ同じと感じます。しかし 中国の平均的な社会(漢族中心の世界)では天の半分を支える女性であっても実質ではやはり男性優位社会ではあるのですが ここでは女性の役割の重さを感じます。

まだ結婚式は続いていましたが午後10時を過ぎましたので自分の部屋に帰って寝てしまいました。次の日も新郎の家では まだ宴会は続いていました。

花腰イ泰族の結婚式で新娘が1日に3回も移動するとなると いくら自動車があるとはいえ、新郎と新娘の家がある程度以下の距離である事が条件になります。戛洒に暮らしている人の人間関係はそれに見合っているようで、親戚もそれほど離れていないようです。








6日目 戛洒 3日目







昨日の結婚式で飲んだ「農家酒」が少し残っています。このお酒1斤2元ぐらいの価格のようでアルコールも50度ぐらいありますが飲みやすいお酒ではありまん。

朝から、以前から気になっていたT1さんの家のテレビの配線を直しに行きました。元江の街でテレビの同軸ケーブルの切り替え器を見つけましたのでそれを持っていき取付ました。戛洒には売っていないので 戛洒の普通の家はこういった場合どうしているのでしょうか?

T1さんの家で、お母さんの実家でお母さんの姉妹が集まっているので お昼を食べに行きましょうと誘われました。T1さんの家から500メートルほどの距離の農家で新しい建物でした。この2階にお母さんの姉妹が集まっていて その一人がぶつぶつと念仏のようなものを唱えていました。どうも先祖に対するもののようです。

ぶつぶつと唱えているテーブルには収穫された雑穀、野菜類、竹篭に入った鶏などが置いてありました。また右手には直径3センチほどの木の持っています。この木は半分に割れていて テーブルに落として、その離れ具合で何かの占いをしているようでした。

この様子を30分ほど撮影していたのですが、その内に眠くなってきていつのまにか念仏を子守歌代わりに寝ていました。

その後、この家で昼食をいただきました。ここでもノウミー 餅米のご飯をいただきました。好吃!
午後はT2さんの家で何かをしていたのですが思い出せません。大概 家の軒下辺りに小さな椅子(農家の椅子は大人用でも子供用ぐらいの大きさしかありません)を出して、近くの畑から取れたサトウキビをかじったり私が買ってきた 林檎や梨を子供達と一緒に食べて時間を過ごしています。それで2,3時間はあっというまに過ぎていきます。





7日目  戛洒 4日目






この日は1の付く日ですので戛洒の市の日です。7時には市場に行ってみましたが既に多くの方が集まっていました。
雲南の薬草である田七の根を4両ほど購入、いつもの揚げ餅の元も購入

朝食は運政招待所の経理の奥さんの妹さんが経営している小飯店にて 茸入りで辛く無い米線を特に頼んで作ってもらいました。以後 黙っていても特別に作って貰えるようになりました。

お昼はT1さんの家族が市の日だけ開いている「湯鍋」で、このタンコウは牛の内臓料理で大鍋でぐつぐつと煮込むのですが 煮込んでいるのを見るとグロテスクで食欲が湧かないのですが小さく切り大碗に盛られてきますと食欲も湧いてきます。味は見かけよりもずっと好く、農家酒と合い、T1さんのお父さんの湯鍋で昼食でした。
この湯鍋の時間は午前10時頃から午後3時頃までです。T1さん自身は正午までここで手伝い、その後、午前0時まで電影院の中で賭事の手伝いをしていました。後で聞いた所 やはり公安も芳しく思っていないという事で長くは続けられないとの事でした。この賭事ですが プラスチックのケースに数字の書かれたピンポン玉が圧縮空気で激しく廻っているのですが こり圧縮空気を停めて ケースの上に取り付けられているビデオカメラに映った数字を当てるもののようです。このビデオの映像がお客のテーブルにあるパソコンの端末に映し出されます。

今年の花街節の時にも戛洒の町中で賭事が行われていたのですが 常時やっているのは芳しい事ではないと思います。しかしT1さんも 仕事が無いから仕方が無いとの事。

午後は戛洒に1軒ある写真屋さんへ
1年ほど前にT3さんに買ってあげた中国製のコンパクトカメラが壊れてしまったという事で相談に行ったのですが 保証は1ケ月という事で1回しか使わない内に壊れてしまったようです。
こういった商品は日本と較べて中国の方が高い上に、保証も無いようなものです。しかも修理も出来ないようで、そんな事を考えると中国で精密機器や電子機器を購入するという事は日本よりはるかに贅沢な事のようです、ですからこういった商品を購入出来る層は少ないのではないかと思います。
日本では精密機器のカメラや時計、電子機器もディスカウントでかなり安く売られていますし、しかもそういった商品でも大概 1年ぐらいの保証かついています。我々日本人はいかに恵まれているかを改めて感じます。
ここの老板には日本からISO800のフィルム、フィルムを入れるエンベロープ、乾電池などもお土産に持ってきていましたので渡しました。こういった写真用の小物の商品は日本の方がずっと安いようです。

夕飯はまたT2さんの家で、T1さんには仕事がありましたので 自然とT2さんの家庭ばかりお世話になりました。今回も本当にお世話になりなんだか自分の家族のような気がしないでもありません。以前、文革の頃は外国人と付き合うといろいろと迫害されたと聞いていますがもう 後戻りはしないだろうと思いますがもしそうなって迷惑を掛ける事がないように祈ります。

戛洒に到着してからは何故か朝が早いので夜も10時頃には寝てしまうのですが部屋が自動車の修理工場の2階で、夜11時頃まで修理の大きな音がしてなかなか寝られません。








8日目 戛洒 5日目







この日はほとんど記憶にありません。
朝食は 楊経理の奥さんの妹さんの小飯店にて
昼食は T1,T2,T3さんと 共に
夕食は T2さんの家で お母さんとT2さんと3人にて

戛洒も長期滞在すると暇ですのでVCDプレーヤーを購入する事にしました。売っている所は4ケ所ほどあるのですが 小型の350元ほどのものを購入しました。保証について聞いてみましたら 「3ケ月保換」という事で3ケ月しか無いようです。で多分 3ケ月後は修理も不可能と思われます。
後で壊れてもめないように領収書にしっかりと「3個月保換」と書いてもらいました。
中国で電子機器を購入するのは日本よりも遥に大変です。







9日目 戛洒6日目 鄂嘉へ





毎日 戛洒で ぼーっとしているのは無駄ですので 思芽の鎮遠へ公共汽車で行ってみようと思っていたのですが往復二日ほどかかるとの事で明日はT2さんのお母さんの弟が結婚式という事で1日しか空いていません。
そこでまだ行っていない戛洒から100Kmほど北の鄂嘉へ行く事にしました。午前7時半の公共汽車で向かいます。

天気が悪く小雨の中を満員の公共汽車で水塘、者竜、鄂嘉へと進みます。水塘から北の現刀までは花腰イ泰族の姿が見られました。雲南の民族分布図をみますと戛洒まではイ泰族が住んでいる事になっていますが現刀まで住んでいると書かれているものはほとんど見ません。

この者竜や鄂嘉はやはり田舎の街という雰囲気で周りの大自然の中の一部分のみを利用して農業を営んでいるようです。大きな樹木はありませんし、丘陵地帯の上の方は利用されていません。また道路も大形車両がやっと通れるかと思う砂利道です。しかし鄂嘉へ行く途中で昆明行きの大形寝台バスとすれ違いました。鄂嘉の街の大きさと寝台バスは不釣り合いでした。昆明に戻ってから金湾汽車駅でもこのバスの時刻を確認しました。

者竜から先は漢族の世界で山の上には彝族も住んでいるそうです。
4時間ほど人家の少ない道路を走り漢族の小さな街、鄂嘉郷へ到着です。そこで乗ってきたバスが2時間ほどで戛洒へ戻るというのでそれで戻る事にしました。
鄂嘉の街で 宿泊出来る宿を探すとなんとか泊まれる宿が1軒あり50元ほど、但し空調無しでした。鄂イ泰酒楼

乗ってきたバスの運転手と戛洒に住む女性車掌が昼食をしていた小飯店で私も昼食、老板娘は彝族の30才になる女性でした。
午後1時半、天気も良くなり戻ります。うとうとしながら午後5時半に戛洒に戻りました
雲南の田舎でも人が多く土地がほとんど利用されている地域もあれば鄂嘉のように人家が少なく、寂しい地域も有るのだと改めて感じます。そしてそういったあまり交通の便が良くない地域に住む漢族は、中原に住む漢族とは大きな違いがあると思います。T2さんの家には者竜から出て来ている三人家族が一間を借りて住んでいます。








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