■貴州 苗族の村へ その二






4日目 温泉村、鎮遠、施秉へ




剣河の町は清水河の沿ってあり、森発賓館もこの河に掛かる橋のたもとに建っていました。朝 町の中を暫く歩き、橋の真ん中まで行ってみましたが前日からの雨でかなり増水していて河の水は茶色く濁っていました。朝食後、温泉村へ出発、まだ時間があるという事で途中の南脚村へ立ち寄る事になりました。ここは清水河を見おろす高台の村で道路から20分ほど山道を登っていきました。村の小学校の全校朝礼が始まっていて子供達が朝礼後教室に移動して行きました。山道を登るのに時間を取られてしまい急いで道路まで降りて温泉村まで飛ばして10時に到着。村の入口の歓迎の門の所には十数人の女性が民族衣装を着て いつもの自家酒を持って待っていてくれました。

早速 牛の角で作った杯でそのお酒を熊さんといただき、歓迎の歌声の中を村の小学校の校庭に移動しました。ここの民族衣装はあまり派手ではなく赤を基調としたもので回族の帽子に似たものを被っています。やはり青をベースにして銀飾りが多い雷山県の民族衣装が一番のようです。十数人の小姐の踊りが1時間ほど有り、小学校の校庭ですから小学生が窓からずっとこちらを見ています。どうもあまり続けると先生から何か言われそうですので 少し場所を移動して踊っていただきました。村の踊りをやってもらうというのは日本から依頼しておいた事で、この時も1人のお客さんの為に踊るのは 初めてという事でした。私も貴州省には何人かで来たいとは思うのですがマイナーな地域で一緒に来られる方は残念ながらほとんどいません。

温泉村から鎮遠県報京村へ、ここは凱里からの国道からそれて、鎮遠に向かう細い山道です。報京は途中にあるトン族の村で、この近くにはトン族はここだけなのだそうです。1時間ほどで報京村へ、着いてみると100軒ほどの集落が見え、子供達も普段着としてトン族のブルーの衣服を来ている子供もいました。しかし残念ながらみるべきものも無く小学校の庭を歩いてすぐ出発、そこから更に1時間ほどで鎮遠へ。

鎮遠は舞陽河沿いにあり、湖南省から河川で上がってこれるので古い時代から漢民族の貴州の橋頭堡として、重要な場所だそうです。鎮遠から船で洞庭湖まで4日ほどの行程で多分、トン族の杉の材木なども同じルートで売られていったのでしょう。従って町並も漢民族風の建物が多く、舞陽河を隣接して青龍寺が建っています。このお寺は漢民族文化を感じさせるものでしたが、私はこういったものを見ると全て同じように見えてしまいます。青龍寺からは舞陽河と鎮遠の街並みが良く見えます。ここで昼食、
鎮遠から西の施秉へ。2時間ほどで施秉へ、途中の村々も漢民族の村でした。5時頃に銀星賓館に到着、時間がありましたので洗濯をしましたが、夜中までには全て乾いてしまいました。やはり中国の湿度は低いようで以後、1日おきに洗濯していましたが簡単に乾いてしまいました。
銀製賓館にて夕食、その後 按摩屋さんに行き足の按摩をしてもらいました。貴州の按摩はかなり頑張ってくれて連日の足の疲れも消えてしまいます。
銀星賓館の前には苗族の銀細工のお店があったのですが 欲しいと思うような素晴らしいものは置いてなく注文のようでした。安い指輪を購入して一日が終わりました。








5日目 四月八へ 黄平泊




本日の予定は、苗族の四月八のお祭りの予定だけですので時間が余っています。朝食まで銀星賓館から歩いて2kmほど歩いてみました。銀星賓館は施秉の街の南にあるので更に南へ歩いて行くと、中学校があり、更に歩いて行くと変電所、そして農家が点在します。
8時半には銀星賓館に戻り、朝食です。四月八のお祭りは施秉と黄平の間にある飛雲崖にて午後から行われるようで、まだ時間がありますので施秉の街から火車站へ向かう道路を暫く行ってみましたら小河村という村がありましたので寄ってみました。村の中に入ってみますと20数軒の家があり、その中の10軒ほどは2世代前に貴州東部から移住してきたトン族の人だそうです。ただ今ではトン語?も喋る事が出来ず、もう漢族の暮らしと同じだそうです。庭には大きな池があり、魚を飼っているそうです。2つの家を持つ家でお世話になっていたのですがその中の1軒は電気工事の人が借りていました。今回の旅では農家の電気配線を引き直している風景が多く見られました。政策的に農家の電気の利用に関して改善される方向にあるようです。特に今まで農村の電気代がいろいろな理由を付けて都市部より高額になっているのですがそれも改善されるのかもしれません。

村の中をうろうろと歩き回っていると何人もの、幼児とそのおかあさんに出会い写真を撮らせてもらいました。2時間ほど村の中で時間を潰して、施秉の町で早めの昼食です。12時過ぎに施秉から飛雲崖に向かいます。5月だというのに気温は30度以上あるようで車は既にクーラーが入っていました。1時間ほど、午後1時半には飛雲崖に到着です。周囲には沢山の露天が出ていて人出は大変なものがありました。聞く所、2万人ぐらいとの事で、道路は通行出来ない状態でした。ここ飛雲崖は道教のお寺のようでそのお寺の隣に崖があってその崖の景観が素晴らしいという事だったのですが行ってみると 単なる崖でした。・・・・ 旧暦の四月八のお祭りは昔の女性英雄を祈念するお祭りのようで芦笙祭や姉妹飯などに較べるとあまり有名ではないようです。ほとんど苗族の民族衣装を見る事が出来ません。何カ所か民族衣装のレンタル屋さんがいるだけです。

飛雲崖のお寺の広場では、この日と次の日に掛けて芦笙のコンテストがあるようで、芦笙を持った人がちらほら見えてきます。しかしその人達も民族衣装を着ていなかったりで、有名でないお祭りとはこんなものかと諦めてしまいました。2時過ぎに芦笙のコンテストが始まり、4,5人ずつのグループが演奏を続けました。残念ながら芦笙の音量も小さく、周囲の騒音も大きくどんな曲かはほとんど判りません。また芦笙は一般的に男性が演奏するのですが男性、女性共で民族衣装も簡単なものでした。残念ながら日本から見に行く価値のあるものではないと思われます。同行した熊さんもかなり不満のようでこれでは海外からのお客さんは不満でしょう・・・・・と言っていました。私としては今更ですからそれなりに楽しんでおりました。数グループの演奏の中で芦笙の演奏ではなくて、苗族とは少し違った民族衣装の女性達がいました。聞くところ「イ革 家」かくか−という民族だそうで、苗族の支族というのは間違いの無いようですが苗語もこの辺りの東部方言ではなくて西部の苗語で人口2万人ぐらい、彼等は自分達は苗族では無いと言っているそうです。
民族衣装もこの辺りの民族衣装と大きく異なり、昔の兵士のようなデザインでそのデザインのままカラフルにして女性が着ているというイメージです。

コンテストも初日の分が終わり、まだ演奏をしているグループの撮影をしていると万さんの日本人のグループとお会いしました。この方はプロの写真家という事でした。それに一人でラオスの方から回って来られた男性ともお会いしました。彼の話では前日、夜中の2時にホテルに公安がやってきて持ち物検査をして帰ったそうです。やはり貴州省の旅行はいろいろと制約が未だに多いようです。

明日も四月八のお祭りがあるようですがこの日だけでも充分ですので4時頃には黄平に向かいます。飛雲崖の人出の為になかなか車が停まっている場所までたどりつかず、更に車に乗った所 黄平まで道路工事でかなりの時間がかかりました。

黄平もほとんど苗族の姿の見えない町で、宿の九八賓館(税務署の中にあります)もなんだか殺風景で・・・・ どうも肌に合いません。町全体が乾燥しているようです?
夕食は万さんのグループと一緒で全員で7人で鍋でした。口に合わず
裏の厨房に行ってみた所 衛生上問題があるように思えてなりませんでした。








6日目 黄平から 凱里へ





この日は本来は四月八の見学の予定でしたが意味が無いと思いますので凱里に移動しながら苗族の村に寄る事にしていました。しかしながらいつのまに、黄平から北の旧洲観光とその近くの水庫の見学となっていました。(私は依頼していません)どうも凱里CITSの万さんと黄平の旅游局との関係でそうなったようです。私達2グループの車は朝食後、黄平の旅游局長を乗せて30kmほど離れた旧洲の町へ向かいました。この旧洲は鎮遠と同じように水運で出来た漢族の町でかなり古い歴史があるようで町並みも鎮遠のものと似ていました。30分近く 町並みの見学をしてから近くの水庫へ行き、エンジン付きの小船の乗せられて遊覧です。私には全く魅力を感じないものでしたが これもおつき合いで仕方がありません。所が ガイドの熊さんがこの程度の観光地では外国からのお客さんにはとても勧められないと旅游局長にかみついていました。私としては拍手喝采なのですが・・・平のガイドが旅游局長にそんな事を言って大丈夫なのでしょうか? こちらが心配してしまいます。

私達のグループは水庫の遊覧を少しだけおつき合いして早々に旧洲から引き上げましたが万さんのグループの日本人は最後までおつき合いしたそうです。
私達は一端 黄平まで戻り 昨夜の夕食の飯店で昼食です。ここでの食事のせいだったのかこれ以後 お腹を壊し、日本に帰国するまで大変でした。
かなりの気温の中を黄平から凱里に向かいます。この途中にはイ革家の人が住んでいるそうでその民家に寄っていただく事にしました。黄平から凱里の道路はそのほとんどが砂利道で今まで一番悪いようでした。ガタガタと20Kmほど進み重安鎮で イ革家の住む地域に入るとガイドの熊さんが車から降りてイ革家の家を探して歩き回りました。30分ほど、10軒程度の家を回ると在宅のイ革家の家にたどり着き、交渉して撮影のお願いをする事が出来ました。この家にはオバサンとオジサンばかりだったのですが 近所に若い小姐がいるという事でその家の子にも頼んで貰える事となり、家の中で結局2時間以上の時間待ちましたが 写真、ビデオ共、民族衣装での撮影をさせていただく事が出来ました。

ここでの撮影はイ革家の人に、数十元と撮影した写真を日本から送るという約束で行ったのですが万さんのグループの写真家がいつのまにかこの家にやってきていて無断で写真撮影をしてしまいました。アマチュアの私が旅行社を使って写真撮影のセッテングをお願いしそれなりの出費をしているのにプロである写真家が私や現地の人に無断で撮影するのは どうあっても納得出来ません。私に対しても又 現地の少数民族に対しても失礼な行為だと思います。撮影終了後この行為に対して抗議しましたが 何故私が抗議したか最初理解出来なかったようです。帰国後この写真家から手紙を貰いましたが 言い訳にもならない事が書かれていましたが、この時の撮影したフィルムは使用しない旨の事だけは書かれていました。
以前から雲南・貴州での少数民族撮影時の銀塩写真家のマナーの酷さは体験していましたが、こちらに書いても仕方が無いという事もありましたので書きませんでしたが、今回ばかりはあまりにも酷いので書きました。
こういった身勝手な撮影状況で撮影された写真が中国少数民族の写真集として発売されるのかも知れないと思うと残念でなりません。


5時過ぎに重安鎮を出発、黄平の食事が悪かったのかお腹の調子が悪くなり、途中でトイレ。7時頃 凱里賓館に到着、夕食は食べられないのでいつも貴州省では緊急時には蜂蜜をミネラルウォーターと薄めて飲んでいました。貴州省に来ると何故か必ずお腹を壊す事が多く、私自身困っていましたが今回は今までよりも重症のようです。夜中に何度も起きましたがなんとか眠る事が出来ました。熊さんは「病院に行こう」と言ってくれるのですがこちらも予定を変えたくありません。








7日目 凱里 人民病院、青曼村へ




朝の体調が回復せず、朝食は抜きです。予定では三日間、凱里周辺の苗族訪問の予定でしたので 熊さんの勧めもあり一番に凱里人民病院へ行くことになりました。病院は凱里賓館から1kmぐらいの所にあり、古い田舎の病院でしたがかなり規模でした。最初 熊さんの親戚という中医の女医さんに見て貰ったのですがやはり食べ物の問題という事で結局は西医の御厄介になりました。まず血液検査、体温、血圧測定、そして大便の検査です。これが大変困りました。小さなプラスチックの箱を渡されてウンコを取ってきて下さいと言われたのですが 大便を取る為の特別なトイレがあるわけではなし・・・・ 大変困りましたがなんとか採取完了、それを先生の所へ持っていくと目の前で明けて眺めています。

1時間ほどで 急性腸炎か肝炎という事を言われ、そのまま点滴です。小1本、大2本でお昼過ぎに完了、夕方再度、もう1本という事で暫く時間がありますので 凱里近くの青曼村へ行くことにしました。この青曼村は1998年11月にパック旅行でこの凱里を訪れた時に北九州のテレビ局のクルーと西江で一緒になったのですがこの時の撮影したものも含めて「繭の鈴」という番組になり1999年に放送されたようです。偶然このパック旅行に参加された方が九州の親戚からコピーを貰って私も見せていただきました。
この時は主に青曼村の家庭の女性が映っていました。この番組の話を熊さんにしましたら凱里のCITSがこの番組の通訳をしたのだそうで 万さんと熊さんも参加したのだそうです。そんな偶然もあり、凱里から30kmという事で行って見る事になりました。

点滴のせいか体調はそれほど悪くなく、お腹もほとんど痛くありません。車は芦笙祭りで有名な舟渓鎮を過ぎ、道路も砂利道になり更に南下します。道路の両側は小さな山が連続してあり、その間の空間を田畑と人家が細長く続いています。
青曼村はそういった環境の中にあり、番組の中で出演されていた女性の家と嫁いだ先の家を訪れてみました。番組撮影後 結婚して子供が出来たそうですが7ケ月と亡くなり、いろいろと大変だったそうです。それで今、ご夫婦は別居していて女性は貴陽に働きに行っているとの事ですが、たまたま私が訪れた時には実家に戻っていましたが 実家のある場所と反対側の山の中腹にある畑に母親と働きに行っているそうで、時間が無く会えませんでした。彼女の夫も今は遠くに働きに行っているそうで、シアワセには遠いようです。

4時過ぎに凱里に戻り人民病院へ。ここで点滴、小1本。病院の費用が心配でしたので旅行保険に必要な診断書を医師に渡しました。老外価格だったらどうしよう!
夕食を取らずに早めに寝てしまいました。








8日目 大塘村、排(上下)村 白岩村 郎徳




この日は予定では雷山県の大塘で踊りをお願いしてありますので 先ず雷山へ向けて走ります。2時間弱で雷公山の麓の大塘へ(実際は新橋村)村の入口で牛の角のお酒が出てきたのですが ちょっとだけで勘弁していただき 小さな村の広場へ。
最初は数人の民族衣装を着た女性と広場の中央には銅鼓があり、苗族の踊りが始まりましたが時間と共に最後には40数人の参加者があり、狭い広場はもう人で一杯です。女性達の民族衣装も1998年3月の郎徳のものとほとんど同じでした。たった一人の私の為にこのお祭りが行われるのですが なんとも贅沢なものです。ここでも 村の世話役と思われる人が民族衣装を着ている女性に小さなカードが渡されます。これを月に1度現金に交換して貰えるのだそうです。1時間ほど踊りがあり、最後にオバサンが掛けていた刺繍のエプロンを譲ってもらって村を後にしました。

次は芦笙を作っているという大塘村からすぐの排(上下)村に寄り、芦笙作りを見学させてもらう事になりました。道路から暫く歩いて村の一軒の農家に入りますと残念ながら芦笙作りの名人と呼ばれる人は不在でしたがその息子さんがいて、芦笙のリードを作る所を見せていただきました。そして丁度 この家に隣の高校生が訪れていて 通常6リードの芦笙ですが12リードの芦笙を演奏してもらう事が出来ました。最初1,2曲演奏して、貰ったのですが12リードの芦笙が素晴らしいのでお願いして録画させてもらいました。約30分ほど。感謝!

雷山にて昼食、少し食べる事が出来ました。

午後からは 毎日放送の「世界ウルルン滞在記」で放送された丹江鎮白岩村を訪れます。場所は雷山県城から西江方面に6kmぐらいで楽里鎮方面との交差点があり、それを楽里鎮方面に2,3Km進むと白岩村です。
熊さんもこの番組は知らなかったようですが白岩村には簡単に行くことが出来ました。やっと何人かの村の人に聞いて番組が撮影されたお宅を訪問するする事が出来ました。突然 訪問したのですがおばあさんと、お母さんがいました。残念ながら番組に出ていた娘さんは雷山にお嫁に行ってしまっていませんでしたが彼女の民族衣装はまだ実家に置いたままなので見せていただきました。このお宅には放送された番組をVCDにして持っていきましたので、近所の人がこのお宅にテレビとVCDのプレーヤーを運んで来てくれ、近所が集まって番組を見ました。(白黒)日本語の番組でしたが皆さん喜んで下さって、熊さんも苗族の番組としては今まで見た中では一番良いという感想でした。番組の最後に娘さんがホームスティをした女性に「何もおもてなしも出来ずあなたに辛い思いをさせて申し訳ない」という歌を歌った時には胸を打たれるものがあったと思います。私の知る限りこのような表現で他人に応対する民族は苗族だけのように思います。苗族は素晴らしい!

私もビデオと写真を撮らせてもらったのですが この家の方から「番組のスタッフが写真を取っていたので送って欲しいと頼んだが未だに送ってくれない。あなたが送って欲しい」と言われてしまい困りました。素晴らしい番組を作っている毎日放送とテレビマンユニオンですが 約束を実行出来ないなら約束をしないでほしいものです。マスコミは良い作品を作るというのは頭にあるのでしょうが、その被写体の人々に対する配慮は不足しているように思います。1999年3月の麗江でもアサヒグラフの表紙を飾った老東巴の写真を撮るだけで私がアサヒグラフを持って行くまで本人は見ていませんでした。

白岩村を歩くと撮影した場所がいたる所で出くわします。番組を見て苗族の素晴らしさを感じて私はやってきているのですが やはり実際に現地にいると番組のイメージとは大きな違いを感じます。やはりそこには生活があり、番組では苗族だけの特徴を取り上げているイメージはその中の一部のようです。

白岩村から雷山、そして1998年3月の郎徳へ。凱里の戻りの途中に観光村郎徳を訪れました。村に入ると早速 お土産売りのオバサンが出てきたのは予定どおりです。村の広場に行きますとこのシーズンはお客さんは来ないようで、広場は穀物の乾燥場となっていました。広場の隣の木造の建物は小さな博物館となっていて2階は招待所になっていました。予定ではこの日にここに泊まる予定でしたが体調不良なので凱里賓館に戻る事にしました。郎徳の村長さんの家を訪問して1998年3月に撮影したビデオから作ったVCDを置いて凱里へ。






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