■雲南 イ泰洒の町へ 新平県戛洒鎮と大理
(4回目) その二







5日目 戛洒滞在3日目




本日 予定無し、戛洒の街を、ぶらぶらしていました。街の中では8日の花街節の為の横断幕の準備も始まり、段々とお祭りに向かって華やかな雰囲気になっています。但し 町角で巨大サイコロ賭博も比例して盛り上がり、胴元が100元札を握って廻りの人をあおっています。この日は前日からT2さんの家でお昼ご飯に呼ばれているのですがTM氏は相変わらず アルコールのせいか誘っても部屋に入ったままでした。
午前11時頃にT2さんの家に行くとT3さんも来ていて家族全員で大鍋で料理を作ってくくれました。途中で3人でT2さんの家のさとうきび畑へ行き、適当な1本を切りガリガリとかじっていました。この畑ですが11月に戛洒に来たときに偶然ビデオで撮影していました。
T2さんも、T3さんもガリガリとやっているのですが私はその内に歯茎から血が出てきました。軟弱です。切り倒したサトウキビですが先端の葉がついている部分を20cmほどは残しておきます。これを又 畑に植えるとまた大きくなるようで、さとうきびの管理は簡単なのかもしれません。3月という季節にも関わらず なかなかの糖度でした

昼食時は小さなテーブルで4人掛けなのですが 人が入れ替わりで結局8人ぐらいの方が見えて恐縮してしまいます。
TM氏を呼んで来て一緒にと言われたのですが「言ったが来ない」がなかなか通じません。
私は親しい人とあまり筆談しません。何故かはわかりませんが雰囲気で相手もこちらも判ってしまうように思います。

どんな食事だったかというと豚か牛のも内蔵の煮込み、キャベツの油炒め、ニラかネギと豚肉の炒め物、などでそれほど種類があるわけではないのですが 一品でドンブリ2杯ぐらいの量があります。後は私が持ち込んだ、孔府家酒(価格も高く無く飲みやすいと思います)と自家酒が出てきます。2時間ほどで辞して招待所へ戻りました。この時にT2さんとT3さんの家にはVCDのプレーヤーがありませんので私がプレゼントする約束をしてしまいましたので夕方 町の電気屋さんへT1さん、T2さんと出向きました。T3さんは仕事の為に不参加
各家に1台とはとても予算的に無理なので2軒で1台という事を念を押しておきました。
町でVCDのプレーヤーを売っている所は3ヶ所しかないのですが彼女達の気に入ったお店で購入する事となりかなり安めの830元のモデルを購入しました。この時T1さんは480元のカラOK用のアンプを購入していました。後で接続して欲しいと頼まれたのですがスピーカーが無いのでどうしようも無いのでした。
VCDのプレーヤーはT2さんの家へ行きました。しかしこの2軒に1台というのはやはり問題があったようでT3に「問題がある」と言われ、どうもT2さん家へ品物は行ってしまったようです。やはり私は軽率だったようで、プレゼントは難しいものです。

一般家庭でVCDのプレーヤーとCATVのテレビをどうやって見ているのかと思っていたのですがT1さんの家では なんとテレビの後ろに手を入れてその度に同軸コネクターを差し替えてました。これではあんまりと後日 VCDプレイーヤーを購入した店に行き雑然とした店の中を捜してT型コネクターを探し出しました。混合器や切り替え器などは全くありません。T型コネクターを持ってT1さんの家に行きこれで無理矢理、CATVとVCDの出力を混合してしまいました。邪道です。あんまりなどで流石にT2さんの家にはしませんでした。やはり手で切り替える方がまともかもしれません。VCDプレーヤーに外部からのRF入力があれば解決するのですが。









6日目 戛洒から哀牢山の農家へ




この日は6の付く日で市の日です。この日以後、寒くじとじとしていた天気もなくなり雲南らしいカラッとした陽射しになってきました。
雲南へ行く楽しみの一つは雲南電視台を見る事ですが 毎朝6時頃 始まるステーションIDが雲南の観光地を数秒毎に切り替わるものが使われていてバックに瑞麗の「有一個美麗的地方」が流れています。この小作品が2,3度繰り返し流れて 放送が始まります。
そして朝七時半から「走遍雲南」の番組があります。これは15分ぐらいの番組で雲南省各地の少数民族の紹介がメインのようです。今回この番組を途中で知り毎朝見るようにしていました。夜にも再放送があるようです。
雲南電視台も3つあるようでYN-1はどこでも見られるようですがYN-2は見ることが出来ない場所もあるようです。YN-3は旅游専門らしいのですが昆明のみで衛星へは打ち上げられていないようです。

YN-1を見てから、7時ごろまだ暗い内に市場に行ってみましたら既に多くの民族衣装を着た女性が野菜類を売りにきていました。前日までに配りきれなかった彼女達の写真を無理矢理渡し、撮影をしていました。もう何回も戛洒を訪れているせいか相手の女性も私を覚えているようです。

招待所の1階にいた前年 生家を訪れた青年が戛洒に降りてくる日ですので 山行きの準備して待っていました。TM氏にも準備して待ってもらっていましたがなかなかやってきません。11時ごろになってやっと再会しました。彼は兄の結婚式で使う野菜を戛洒の市に買い出しに来たようで、一緒に生家へ行く事になりました。しかしお昼頃では 戛洒から山に上がるとその日の内に下山出来ません。そこでTM氏と相談し彼は戛洒に残る事となりました。(正解でした)

お昼を彼の親戚の三人と共に済ませて、大形耕運機で野菜と共に彼の生家である耀南村東瓜林に向かうのですが、全員座る所がありません。耕運機の荷台はすでに大量の野菜類がありました。とても私には無理なので私が車を包車して向かう事になりました。包車といっても軽自動車で結局 一人は荷台でしたが恩南滝で小休止後、二時間で彼の生家に到着です。

東瓜林の彼の家はほとんど変わっておらず雲南の農村のたたずまいを感じます。彼のすぐ上のお兄さんが花街節の日に結婚式だそうでこの家で盛大に行われるようです。この日はその二日前ですが既に 近所や親戚の人と思われる人が10人ほど集まっていて雑事をしていました。戛洒で買ってきた野菜類を家畜小屋の屋根に乗せて干したり、大豆を水に浸していました。私は彼と共に近所を廻って写真を撮っていましたが いつのまにか彼の家には沢山の机と椅子が出されていて2日前にも関わらず自家酒がだされ盛り上がっていました。

宴もたけなわになると日本の三味線のようなものが出て唄も始まっていました。人数も数えてみましたが30人以上はいたようです。
私も8時頃までは記憶があるのですがとうもろこしで作った白酒はかなり強く、用意されていた布団で朝までぐっすりと寝てしまいました。







7日目 哀牢山から戛洒へ




朝8時頃 目覚め、洗面後です。トイレは家の外にあり、簡単に作られた日干しレンガで畳1畳ほどに作られていました。汚い、臭いという感じではありませんでした。
そして朝食です。漢民族でうどんなんですが味付けが砂糖でした。なかなか面白い味で不味くはありませんでした。
昨夜 宴会で盛り上がっていた人で近所の人は再度やって来はじめて 時間と共に賑やかになってきます。その内に庭の一角にある豚の飼育場所から一頭が引き出されました。どうも宴会に使われるようです。どんな事が行われるかが大体 検討がつきますのでビデオとカメラを持って一人で近所を廻って見る事にしました。

この耀南村は戛洒鎮とは距離的には近く10Kmは無く、健脚なら歩いて3時間ほどで戛洒まで行く事が出来るそうです。しかし標高差が1000メートルほどあり、標高1800メートルという事で一月下旬に昆明に大雪の降った時にこちらでも降雪が30cmほどあったようです。
そのような位置関係の為も道路としては戛洒から道路は一端 北上して大きくUの字を描いて耀南村にやってきます。道のりとして40Kmで2時間ほどかかります。戛洒にくる玉渓市のホテルで丁度 この耀南村が赤軍と匪賊の戦いの場所だったという事が放送されて おり(1955年頃)この家からもその時の革命烈士の記念碑が遠くから見る事が出来ました。

朝靄もなく清々しい空気の中、家から傾斜地を上がっていくと数軒づつの農家が固まっています。畑では野良仕事をしている女性が見えます。丁度えんどう豆の花と梅に似た花が咲いて、戛洒の田園地帯とは違った畑作中心の山間地の雰囲気でした。農家の庭に入って写真を撮らせて貰ったのですが 言葉が全く通じず、カメラを向けても泣き出す子供もいたりでゆっくりする事が出来ませんでした。ただ 戛洒のタイ族の農家よりも貧しいようでした。一般的に環境の良い場所を漢民族が居住し、悪い場所を少数民族が居住するというイメージを持っていましたので ここの住分けは雲南特有なのかもしれません。

1時間半ほど近所をうろうろして家に戻りましたら黒豚が大きな鍋の脇で黒毛をむしり取られていました。1頭1000元程度で二頭分が1軒の農家の年収だそうです。しばらくすると 再度 豚の飼育場から1頭連れ出され結局2頭の黒豚が使われるようです。
こちらも覚悟を決めて豚の処理を観察する事にしました。豚はまず前足と後ろ足をそれぞれ縛られ、テーブルの上に乗せられます。この家の祖父が線香を炊いています。
そこへ刃渡り20cmの包丁を喉に突き立てます。豚はヒィーヒィー言っていますがその声も聞こえなくなります。突き立てた包丁の所から鮮血が出てそれを洗面器に貯めています。
その血は煮込んで固まりとなり宴会に出てきます。私も食べましたが ゾリゾリという感じがしてやはり美味しいものではありません。
その後 黒毛を剥く為に大鍋の所へ 男性が木の棒につるして移動していきました。1時間ほどすると台所には赤みの肉や、白身の肉が山のように積まれていました。

結婚式前日のこの日には40人ほどの人がいました。私も1月に広州で買った赤色の祝儀袋に祝儀を入れて結婚されるお兄さんに渡しました。その内にそろそろ戛洒に帰る時間になりましたので帰る話を一緒にこちらに来た弟さんに話したのですがどうも はっきりしません。一人でバスで帰るという事のようですが。 お昼前に昼食が始まり、先ほど処理した豚肉なども出てきます。急いで済ませて弟さんに帰りたいと伝えると、バス停留所まで送ってくれる事になりました。20分程歩いて バス停のある場所まで歩いていると目の前を私が乗るバスが行ってしまいました。
仕方が無いと思ってバス停まで到着して、そのバス停近くの旅社の人の話では、この日はもうバスが無いという事でした。こちらもその程度の事は覚悟していましたので 連れてきてくれた弟さんに頼んで 通りがかる車を停めて戛洒まで乗せてもらうように頼んでもらうつもりでした。しかし 通る車自体が1時間に数台でほとんどがトラックで同乗者がいましたので なかなか頼むことが出来る車が通りません。
そのな状態で 少し下がった場所に新平県の開発旅游公司の旅社と小飯店がありますのでそこで待つ事になりました。ここで聞いた所 この場所は思茅の鎮元と昆明を結ぶ、寝台バスが休憩・食事の為に午後5時頃寄るという事でした。
そこで待ち続けると一台のジープがあり、戛洒の隣の大紅山の人が乗ってきているという事でそのジープに頼んで乗せて貰える事になりました。そのジープの人は3人組で夕食を始めました。そして5時の大型寝台バスが到着し、乗客の多くは食事をしています。このバスに乗れば 簡単に昆明と戛洒の移動も可能かと思います。
その大形バスも行ってしまい ジープの人達を待っていますとこの三人の人が小飯店から出てきて私が日本人である事を言い出しました。この3人の中の一人がどうも日本人を嫌っていて酒の力でしょうか、大声て騒いでいます。結局このジープで帰る事は断念しました。その為かジープの運転手の人も困ってしまって 結局 私が戛洒から車を呼んで帰れるように手配をしてくれました。いろいろな人がいます。日本人に反感を持つ人、それをフォローしてくれる人。

この時点で午後8時です。明日は戛洒のお祭りですからどうしても私は今日中に帰りたいという気持ちがやっとかないました。夕食を長い時間付き合ってくれた弟さんと共に そこで夕食です。もう時間も遅いので隣のテーブルでは働いている小姐達も食べています。午後10時にやっと戛洒から6人乗りで前が座席2列、後ろが貨物という車がやってきました。
この耀南村に誘ってくれた弟さんがしきりに謝ってくれました。私は中国ではよくある事と言って お礼を言い別れました。
ガタガタと助手席に揺られ、窓からは戛洒のお祭り前日の電灯の光を見ながら2時間で戛洒の町に戻りました。夜間の為200元なり

戛洒の町は0時という時間にも関わらず相当の人出で賑わっていました。T2さんもまだ映画館で働いていました。








8日目 戛洒 花街節




念願の花街節です。いったいどんなお祭りなのでしょうか。
戛洒のいつもの小姐はどうも時間が無いという事で民族衣装を着てくれそうにありません。しかしお祭りの日ぐらいは年頃の女性の民族衣装姿が見られるかもしれません。
お祭りのメインは夜という事で九月に一緒に撮影させてくたれ4才の少女の家に行き再度、民族衣装のお願いをした所、心よく聞いてくれました。九月の時の少女と彼女の姐、近所の子の三人です。あと民族衣装は着てもらえないもっと小さい子と共に 彼女の家の屋上と元江の河原で撮影会となりました。河原には後ろから母親もついてきています。

しかし4,5才の女の子ですが歩くのが前回もそうでしたがとても早く、大人の私でも追いつけないぐらいです。
今年の雲南は寒波で毎日寒さを感じていたのですがこの日はかなりの暑さになり河原の強い陽射しの中でTM氏と共に撮影をし一眼レフ、ビデオカメラ、インスタントカメラでかなり撮影しました。インスタントカメラのチェキはあまりの陽射しの強さでほとんどが過剰露出で困りました。

昼頃になると戛洒の建物の間にある広場でお祭りのアトラクションの準備が行われ、爆竹が大量に使われていました。中央のステージには こちらの人民政府公認の宝くじの発表会の準備も行われていました。ここの広場の周囲は階段状になっていて 少しづつ人が集まっていますが小学生より小さい女の子は民族衣装を来ていますが年頃の女性は全く着ていません。結局 お祭りで期待した被写体は全く見ることはできませんでした。

このお祭りは中国の分類でいくと「生殖的・・・・」という事で結局 若い男女の出会いの場である事が判ったのですが その事と民族衣装は別のものとなってしまったようです。

夜に入るとメイン会場ではいろいろなアトラクションが始まっていて とても後からは入れない盛況でした。私は隣の宏福飯店の窓から見ていましたがなかなか面白いものでした。戛洒の道路は人で溢れていましたし、道路には露天がひしめき合っていました。
このお祭りでも いつもお世話になっているT1,T2,T3さんも通常どおり仕事があるようで、T3さんと会っただけで、T2さんは映画館で働いていました。

ただ 彼女達の家族はそれなりにお祭りを楽しんでいるようで、戛洒では湯鍋(タンコウ)と呼ばれる牛や豚の内臓料理を作って宴会をするそうで、その席に呼ばれていたのですが自宅では無いらしく 場所がよく判りませんでした。しかし お祭りの中を歩いていてこの場所を偶然見つけました。場所は大きな建物の裏でトタンの屋根のテーブルと調理をする為のカマドが並んでいる場所を以前から見ていたのですが そこで行われていました。招待所の経理やその親戚の方、(漠沙の花腰タイ族のオバサンでした。民族衣装を着てました)と少しご馳走になり、T1さんの家族の場所も見つけご馳走になりました。T1さんのお父さんもご自身で湯鍋を作られるようです。この場所は千平方メートルほどの場所でトタン屋根、椅子とテーブル、カマドが並んでいて 年中使われているわけではないようですが 何かの時に使われるようです。哈尼族の数百メートルの長さにテーブルを並べる宴会と似たものかも知れません。

丁度この場所には玉渓のテレビ局がこのお祭りの為の取材が来ており、取材陣も盛り上がっていました。

しかし ほとんど男女の出会いも目撃出来ませんし、民族衣装も子供のみでした。
もう一度 行く気力もそろそろです。
明日は戛洒より大理に向かいますので残念ですが 早めに就寝です。







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